介護業界に男性視点を!
定年後の男たちの挑戦
稲垣あきらさん(87)
高岡隆一さん(85)
米津忠彦さん(81)
長 凡さん(82)
稲垣あきらさん(87)
高岡隆一さん(85)
米津忠彦さん(81)
長 凡さん(82)
写真左より:長さん、稲垣さん、高岡さん、米津さん
写真左より:長さん、稲垣さん、高岡さん、米津さん
みなさんが開設した「男性向けデイサービス」の松渓ふれあいの家ですが、そもそもなぜデイサービス施設で起業しようと考えたのでしょうか?
高岡私は機械メーカーに就職し、関連会社の役員を務めて62歳で定年退職しました。いざ自由になったら、周りに誰もいないことに気づいたんです。定年退職後、すぐに杉並区主催の「男の料理教室」に参加し、その後も仲間とともに「うどん打ち」などの活動をしました。
米津私も含めみなさん企業のサラリーマンで、役員の経験もした会社人間です。現役時代は家と会社の往復ばかりで、地域とのつながりはありませんでした。
高岡定年退職して暇になった我々が集まっていたところに、2000年4月、杉並区が5つの学校の空き教室を介護施設にするために、運営する法人を公募していると紹介されました。じゃあ、元サラリーマンの男性軍が考える介護事業をやろうじゃないかってなったんです。介護職の経験は何もなかったんですが、5人でヘルパー2級を取得してコンペに挑みました。男性グループというのは、杉並区にとっても珍しかったでしょうね。
長当時、介護事業といえば女性の仕事で、すべての企画やプログラムが女性視点でした。でも、一緒に歌を歌ったり手遊びをしたりは、私達のようなサラリーマンとして企業で働いてきた男性には抵抗があるわけです。男性向けの施設やプログラムが欲しいというムードは、料理教室に来ていたほかの男性たちからも感じていました。
米津そこで「男の料理教室」に参加していた加藤耕一さんと、稲垣さん、高岡さんの3人が中心になって、同年の5月に杉並区の公募に応募しました。私と長さんは、サポート役として後から参加したのです。
同時にNPO法人設立準備委員会を立ち上げ、「松渓ふれあいの家」を運営するための法人として「NPO法人生きがいの会」を設立しました。
それまでの介護事業は、言い方は悪いんですが、介護一筋の人が考えた介護だったわけです。元サラリーマンが持つビジネス視点を業界に入れてくれるんじゃないかという、行政からの期待を感じましたね。
高岡コンペの結果、同年12月に東京都からの認証を得て、2001年2月1日に通所介護の指定を受けて「松渓ふれあいの家」でデイサービス事業を開始しました。
元サラリーマンだった自分たちが求めていたからこそ、潜在的なニーズを肌で感じ、チャンスをかたちにできたのですね。結果的に、「松渓ふれあいの家」が男の介護施設のパイオニア的存在になったわけですが、麻雀やワインを介護施設に取り入れることに、反対意見はなかったのでしょうか。
米津もうね、稲垣さんは最初から麻雀をプログラムに入れていたからね。行政からやめろって言われてるのに(笑)。
長介護ばっかりの視点だったら考えつかないですよね。元サラリーマンだったからこそ出てくるアイディアです。
高岡麻雀は、それまでどこもやっているところがないものだから、反対されていました。行政はゲーム用の麻雀を1セット支給してくれたのですが、使い慣れた本物がいいと変更していただきました。
米津我々の現役時代は、酒を飲むか、麻雀するか、ゴルフするかしかなかったですからね。麻雀は男が絶対喜ぶって、頑なに稲垣さんがこだわってました(笑)。
稲垣麻雀のほかには、焙煎したおいしいコーヒーを入れたりとか。そのあと、5のつく日の昼食後に、ワインを出すようになりました。どうやったら男性が来てくれるだろうかと、そればかり考えていましたね。
我々の成功は、杉並区の助成金、学校の空き教室利用など、最初から必要なものがそろっていたことが大きいでしょう。
そうでなければ資金面から難しかったですね。チャンスをつかむためのアンテナを広げて、無理なく起業できる方法で始めるのが良いと思います。(高岡)
株式会社らいふ
佐藤恵美子さん(73)
総合病院の看護師として、60歳の定年まで37年間勤め上げた佐藤さんが、セカンドキャリアとして選んだのが介護職だ。
現在、株式会社らいふの「ケアコンシェルジュ」として忙しい毎日を送っている佐藤さんに、介護に対する思いとやりがいについて聞いた。
介護職に就き新たなやりがい発見
佐藤さんの現在の仕事は、前職の看護師の経験を活かした「ケアコンシェルジュ」だ。ケアコンシェルジュとは、介護付き有料老人ホームを軸に高齢者向け介護事業を運営する、株式会社らいふのサービス「らいふ・ケア・コンシェル®」
の専任スタッフをいう。同社には、趣味や特技、意欲を持った元気なシニアを「パワフルスタッフ」として雇用する独自の雇用形態があり、佐藤さんは看護師として70歳の時に入社。その後、一人ひとりの要望に1対1で対応する「らいふ・ケア・コンシェル®」の研修を受講し、ケアコンシェルジュ(パワフルスタッフS)として活動している。
「仕事内容は、外出の付き添い、足湯やマッサージなど生活に必要なケアから、時には何時間も話を聞く傾聴にまで及びます。責任を伴いますがその分、充実した時間を過ごせていますね」
この日も、神奈川県大和市にあるらいふ大和で98歳になる入居者の方の足湯とマッサージを行ってきた。「マッサージをしてもらって寿命が延びた。ありがとう」との言葉に、「とてもうれしい」と、佐藤さんは顔をほころばせる。「入居者の方と接することには、看護職では得られない多くの学びがあります。自分がその年齢に達したときの姿を見せていただき、学ばせてもらえることは、何にも代えられない体験です」。
看護師の経験を活かせるケアコンシェルジュ
佐藤さんは、総合病院で60歳の定年まで看護師として勤め上げ、その後、東京都町田市の高齢者支援センターに再就職した。同センターで70歳まで勤めた後は、以前からかかわっていた老人会でボランティア活動を開始。活動拠点としていた公園の近くにある、らいふ町田の職員から「看護師としてパーキンソン病の方の散歩に付き添ってもらいたい」と相談され、看護師として再々就職した。
しかし、働いて1年ほど経ったころから佐藤さんの心境に変化が現れる。「一人ひとりと向き合う時間が限られる看護師よりも、1対1で寄り添える介護の仕事がしたいと思い始めました」。
介護職へのチャンスはすぐに訪れる。らいふ町田より「看護師の経験を活かして、ケアコンシェルジュとして働いてみてはどうか」と声がかかったのだ。ケアコンシェルジュとしてなら看護師経験を発揮しながら介護ができると考えた佐藤さんは、同職になることを決意。現在は、小田急相模原を拠点に、大和や二俣川、たまプラーザなどのらいふ各施設で活動している。
長いスパンで考えず今できることを精一杯
そんな忙しい日々を過ごしている佐藤さんだが、「じっとしていられない性分なの」と、疲れをみせることはない。友人たちからは、常に泳ぎ続けている回遊魚みたいだから、「マグロ」とあだ名をつけられているそうだ。佐藤さんの仕事時間は、週4日を基本に月平均100時間。依頼が入ると週5日になり、仕事量がオーバーしてしまうこともあるが、「依頼があれば断らずに対応します。働くことが好きですから、健康で仕事ができることはありがたいことです」。
お互いの”笑顔”が信頼を作る
さらに、元気に働ける理由は「仕事の楽しさ」にあると、佐藤さんは語る。「医療面重視の看護職と、生活面重視の介護職。介護は治療をすることはありませんが、いかに安楽に過ごしていただくかを考え、長い時間をかけて進めていかなくてはなりません。難しいですが、それ以上にやりがいを感じています」。
今は長いスパンで働くことは考えていない。「年齢的に区切りを1年と決めています。1年経ったらそこで再度考え、もう1年頑張ろうと気持ちを新たにするのです」。
1年更新を積み重ね、できるだけ長く働くことが目標だ。
さらに、元気に働ける理由は「仕事の楽しさ」にあると、佐藤さんは語る。「医療面重視の看護職と、生活面重視の介護職。介護は治療をすることはありませんが、いかに安楽に過ごしていただくかを考え、長い時間をかけて進めていかなくてはなりません。難しいですが、それ以上にやりがいを感じています」。
お互いの”笑顔”が信頼を作る
年齢を考えて、興味があることをしないでいると後悔します。
悩んでいるだけで、時間は過ぎていきます。そうならないためには、まず一歩を踏み出してみることが大切です。今、少しでも何か、やりたいと思っていることがあるなら、明日から始めてみませんか。
社会福祉法人 伸こう福祉会
片山賢三 さん(71)
前職は国鉄の工事局。経験も資格もない状態で介護業界に飛び込んだ片山さんは「現場を知っていたら、働こうと思わなかったかもしれません」と振り返る。シニア世代だからこそできる仕事とは何か。人生経験そのものを活かす働き方を語る。
後悔が背中を押した未経験の仕事への転身
片山さんがセカンドキャリアの舞台に選んだのは、特別養護老人ホームをはじめとした介護事業などを展開している社会福祉法人伸こう福祉会。65歳から同法人の介護の現場に入り、現在は本部で総務担当として働いている。同法人で働くきっかけとなったのは、ハローワークからの勧めだった。「近所で働き口を探していたところ、ちょうど伸こう福祉会の関連施設が近所にできるというので応募することにしました」。
とはいえ、片山さんは介護の資格も経験もなかった。門外漢を介護の仕事へと飛び込ませたのは、母親の介護から目をそらしていたという後悔の念であったという。「実は、私の父親が亡くなってから、母親の面倒は兄夫婦と妻に任せっきりでした。できればかかわりたくなかったというのが本音かもしれません。応募を勧められたとき、自分が母親にできなかった介護をしようと思いました。就職で信州から上京し、退職後住んでいる地元の横浜で社会貢献ができるというのも、この施設を選んだ理由です」と、経緯を語る。
以前に勤めていた会社からも再雇用を求められていた片山さん。 「都心までの通勤は体力的にも長続きしない。だったら思い切って、勧められた介護施設で働いてみようと思ったんです」
後世に残る仕事に携わった国鉄職員という誇り
片山さんの前職は、日本国有鉄道(国鉄:現JR)の職員で、工事局で土木構造物関連の業務に従事した。工事局は全国で10カ所、最盛期には40万人いた国鉄職員のなかで1万人ほどしかいない、選ばれた人材が集まる部署だ。
1987年に民営化で国鉄からJRとなった後は、日本国有鉄道清算事業団で土地の有効活用を推進する業務に就く。
「JR東海の新幹線品川新駅を造るプロジェクトに携わりました。完成までに6年かかり、品川駅を見るたびに思い出します」。
後世に残す仕事をしてきたという自負が、片山さんにはある。唯一の心残りが、母親の介護をできなかったことだ。
人生経験に基づく対応で利用者が心を開くように
こうしてまったく畑違いの介護の仕事へと飛び込んだ片山さんには、いくら施設の方針が「思いがあれば無資格未経験で良し」とはいえ、やってみると奥が深かった。「2カ月経ったときに、辞めたいと伝えたことがあります」と振り返る。入浴や排泄の介助などわからないことばかりで、やはり無資格では無理だと考えたのだ。
しかし、施設長からは「元気なうちは現役で働き続けてほしい」との返答とともに、「週3日にしたらどうか」という提案に、片山さんの肩の力が抜けた。フルタイムから時短勤務に変えてもらい、再トライしてみることにした。「不思議なもので、気が楽になると、利用者さんが何を考えているのかわかるようになりました。どのように声かけしたら喜んでもらえるかを考える余裕ができたのです」
パソコンを使って
データ整理をする片山さん
片山さんが声をかけると、頑なだった利用者さんが心を開くようになる。昔の仕事の話から会話を引き出したり、夫婦のなれそめを聞き出したりなど、若い職員にはない人生経験を持つ片山さんだからこそ、できることも多い。昨年足を手術したため、現在は現場を離れて、書類整理やパソコン作業など事務の仕事をしている。
これも、「元気なうちは現役で」という同法人の方針からだ。 「働いていると、若くいられる気がします。社会とのつながりが健康寿命を延ばすのでしょうね」と、
片山さんは背筋を伸ばし快活に笑った。
パソコンを使って
データ整理をする片山さん
働きたいけど経験や資格がないなどと悩んでいるのなら、まずは思い切って飛び込んでみることも必要だと思います。
週1日からだって良いんです。役に立ちたいという思いがあるのなら、人生の経験はきっと誰かの喜びを引き出すことができるでしょう。